その3では後半に関宿の関連映像もアップしていくので少々長くなりますが、ご了承ください。
2024年12月21日(土)亀山 ☁ 10℃/-2℃
三重・亀山でプチプチ旅行 その2 東海道亀山宿~関宿(1) - kotarosandayoneの日記【前回はコチラ】
亀山宿を後にして、東海道53次の宿場町、関宿に向かいます👞
解説にもありますが黒漆喰と格子のバランスが良く、軒先の乳母車が可愛い。
この辺りは道幅も広く、赤と黄土色のカラー舗装で「旧東海道ですよ」とこれでもかと主張しています。
続いて「旧東海道を代表するランドマーク」が現れます。
『野村一里塚』【国史跡】
江戸幕府は東海道など江戸を起点とした主要道路を「五街道」と定めて道路や宿場町を整備するとともに、距離の目安とするため1里(約4キロメートル)毎に目印を置いた。
野村一里塚は江戸から数えて105里目にあたり樹齢約400年の椋の木が植えられています。
一里塚は基本、街道の両脇に設けられたが、野村一里塚では北側の塚はこうして残っているものの、南側の塚は後に平らにされて残っていません。
ちなみに秋には彼岸花が咲きまくるそうです(笑)
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までのべ25日間で歩き通しましたが、三重・亀山の野村一里塚が東海道中でナンバーワンといっても過言ではありません。
「どうせ地元びいきでしょう」と思われるかもしれないが、一里塚の事を調べようと思って【世界最大の電子辞書】を開いてみたらなんと、代表写真は野村一里塚でした^_^ ※もちろん他人の編集です
一里塚 - Wikipedia【外部リンク】
続いて街道筋の茶畑に差し掛かりました。もう寒くなっているがお茶の花がまだ残っています。
お茶も花や実をつけるけど、そのために養分を取られるので茶農家さんは秋になると花のつぼみを刈り取ってしまうそうです。どうりであまり見ないはずですね。
このあたりの東海道も一段高いところを通っています。
今度は遅い紅葉に差し掛かりました。神社の杜の様です。入って行きましょう。
【布気皇館太神社】(ふけこうたつだいじんじゃ)
「神戸七郷の総社」というから、旧鈴鹿郡の役所が亀山に置かれたのに対し、こちらの神社は鈴鹿郡の神社の元締めではないかという(お得意の)仮説を立てる。主祭神は天照大神。
第十一代垂仁天皇の娘・倭姫命が天照大御神のご鎮座地を求めて旅した時に立ち寄ったとされる「元伊勢」といわれ、江戸時代は向かいの茶店に松尾芭蕉が立ち寄ったという。
歴史ある神社をして穴場と称してはいけないが、旧鈴鹿峠と共に「こたろー・紅葉の穴場リスト」に加わりました。来年もお参りしよう。
坂を下って、国道1号と関西線を乗り越えたら東海道は鈴鹿川の河川敷を行きます。
【大岡寺畷】(だいこうじなわて)写真は亀山方面を振り返る
「畷(なわて)」とは遮るもののないまっすぐな道の事をいい、鈴鹿川沿いの東西2キロに及び、冬は鈴鹿おろしの「吹きさらし」となり旅人を悩ませた。
名阪国道の橋の下に歌川広重「東海道53次」の版画がデザインされている。
1965年に開通した「昭和の東海道」の下に旧東海道の浮世絵を並べるとは粋なアイデアです。
名阪国道と東名阪・伊勢自動車道の直結線を潜った後も「大岡寺畷」は続きます。
今でこそ高速道路とかホテルとか、目を引くものがあるけど江戸時代は先ほどの天照大御神を祀った神社から関宿までず~っとまっすぐな道の吹きさらし。東海道中で一番長い「畷」だという。
250メートル程、国道1号と並行するだけで再び旧道と分かれます。目の前には「関宿」の看板。
関宿の入り口には親子二代での仇討を行った「小万のもたれ松」跡があります。
今後亀山から関宿まで歩こうとしている方、「関宿」の看板をみてゴール🏁だと思うのは早合点です。
下の図の右側、亀山から関宿まで歩いてきて、今いる関宿の看板(入り口)はオレンジ色の➡で示している所。
一方、関宿の長さは太い青い線で示した区間。長いでしょ。
ではここからどんどん、関宿を進んで行きましょう。
ちなみに鳥居横の常夜灯の奥は「江戸から106里目」の一里塚跡ですが、何と言ってもこの鳥居の由緒を語らずにはいられない。
現在の鳥居がここに建ったのは2015年。伊勢神宮式年遷宮の2年後です。その前にこの鳥居がどこにあったのかというと
これだけでもすごいですよね。しかし更に時を遡って、この宇治橋の鳥居の柱は元々どこに使われていたかというと。
東の追分 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ)【外部リンク】
「天照大神を祀っていた伊勢神宮本殿の大黒柱」が時を経て関宿の玄関口にやって来るという事で関の町は20年に一度の「おおまつり」となる訳です。
関宿東追分一の鳥居お木曳: ぶらり旅【外部リンク】
普段はこのように地元の車が潜るだけですがこの鳥居から、伊勢への道中がスタートします!
関宿は現在も車同士がすれ違うのが精一杯。一方通行の所もあります。
「○○するのが関の山」という言葉がありますが、これは東海道の関宿から生まれた言葉です。
おまつりの時に出る山車が軒先をかすめるように通行する事から「これ以上山車を豪華にすると通り抜けられない」とか「これ以上人出で賑わうと通行不能」などという「限界」を表す意味から来たそうです。「関の山車」が語源なんですね。
2024年7月の「関宿祇園夏祭り」の写真です。幅的にはもう少し大きくても通れるかな~と思っていたら。
ゆっくりと進む山車の横を通るのにも一苦労。
クライマックスの関の山車4基が同時に回転する「舞台回し」がはじまるともう、押し合いへし合い。
12月21日(土)に戻ってみよう。歩き出しの早朝は凍えたが関宿に着く午前10時頃には人が増えて来た。
こちらは1年中しめ飾りをする伊勢の風習。人と同時に文化もやって来るんですね。
八百屋の看板をよくみると「遊快亭」とある。元遊郭だった名残。
格子の隙間からお姉さまがキセルでも吹かしながら街道をゆく人を見下ろしていたのかも知れん。目が合ったらどうしましょう?
漆喰の壁に飾り屋根のデザインを凝らした町家と、一軒一軒見ていて飽きません。
いろいろな建物が連なる関宿ですが、そんな中でも昔からある関宿ルール?を紹介します。
どんな漢字を書くのかと、看板の裏に回ってみると
関宿では京都から江戸(東方向)に向かう人達は「漢字の看板」を。逆に江戸から京都に向かう(西方向)に向かう人達は「ひらがなの看板」を目にします。
土地勘のない旅人が翌日旅籠を出発しても間違わないように【東西の行き先を分かりやすく】するために店先の看板のルールを作った訳です。
「方向を示すため」では簡単なのでクイズにはならないと思って。もうひとつ踏み込みます。
【問い】どうして「江戸方向は漢字」で、「京都方向はひらがな」なのか?
チコちゃん風に答えてみましょう。
【答え】(東の江戸に向かう)京都の人は学があって、漢字が読めるから~!
という事は(京都に向かう)江戸の人(あずまびと)は〇がないから「ひらがなでないと読めない」・・となりますが。どうなんでしょう。
「てやんでい、こちとら江戸っ子よ。毎日の様にスキャンダル、もとい、かわら版が飛び交ってるんだ、漢字くらい読めらい!」
チコちゃんではなく弥次さん喜多さんに叱られそうです。「ちょうかんてい」に登ってみましょう。
そういえば、山梨のコンビニで屋根の上に富士山が乗っかっている写真がバズッて渋滞するだの営業妨害になるなど騒ぎになっているようですね。
文字通りの「眺関亭」からは関の山、ならぬ鈴鹿の山を背景に関宿の街並み、正面奥に地蔵院とすばらしい構図になっています。ぜひお立ち寄りを。
と書きかけてすごい事を発見しました。「ちょうかんてい」の謎が解けました!!
「鳥瞰図」の「ちょうかん」とかけてある!!
昨日泊まった「カンデオホテルズ亀山」の人気プランはラウンジで生ビール🍻飲み放題。その名も「ハッピーアワー」なんですが「幸せな時間を」と🍺の泡をかけてあるそうです。さすが亀山。お後もよろしいな。
年が明けたら東海道の関宿から続きを歩く予定です。鈴鹿越えは厳しいので真冬は「あいの土山」まで歩くくらいが関の山。
2024年12月29日(日)年末年始休みの2日目に更新 新年まであと三日🎍🎍