大阪の海上交通=道頓堀の水上バスくらいのイメージでしたが、「水都大阪」なるコピーを、他府県の私としては、今回の旅を計画するまでは存じ上げませんでした。
淀川水系の上流では洪水対策と新田開発、下流では工業や海運業の発達とともに河川改修が長い長い年月を経て行われてきたようです。
【大阪船手会所跡】大阪湾から木津川や淀川への船の出入りや、湾に停泊する船を監視する役所で、1620年設立~1864年廃止というから「江戸期の水都大阪を象徴する遺構」と言っても良いでしょう。
地下鉄(大阪メトロ)阿波座駅から桜川駅に移動し、歩いて南海電車汐見橋駅(浪速区)に向かいます。「浪(波)が速いから潮(汐)の流れを橋の上から監視」していたのでしょうか。
建設中のタワマンを見上げながらふと後ろを振り返ると、
オートバックスの並びにある渋い出入口。一瞬トイレか倉庫?と思ったら駅でした。
頭の上の高速道路が無ければ「ローカル線の終着駅」だよといっても不思議じゃない、ひなびた雰囲気。
高野山方面に向かう大阪始発のターミナル駅として1900年に開業しましたが、現在の新今宮~南海なんば駅が本線となってからは木津川沿いを走るローカル線となりました。
日曜日の午後、運転士と私を含めた乗客2人を乗せて電車は始発駅を出ました。3駅先の津守駅(西成区)で降りました。
現在の西成区と大正区の間を流れる木津川沿いはかつて「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、津守駅の隣には4000人規模の紡績工場があったそうです。
工場跡の公園や学校の前を通って、ベイエリアに8カ所ある渡船場のひとつ「落合上渡船場」に向かいます。
対岸の大正区に船が停まっています。「あの大きな建物は何ですか?学校でも病院でもないし」と自転車の男性に訪ねると【公営住宅】だという事です。
「あの辺りを境に、北側は【朝鮮半島出身の人】が、南は【沖縄出身の人】が住んでいて今でも色々な問題が残っとる」と話されました。【 】内は私の言い換えです。
午後3時ちょうどの船がやって来ました。土日でも15分おきに船が往復して客を乗せていきます。乗船料は無料で、運河にかかる歩行者自転車専用道路と言っても良いでしょう。
この地域について語る時、「東洋のマンチェスター」に続いて「リトル沖縄」というキーワードにも当たりました。明治・大正以降、紡績や造船業の発展で急速に必要とされた労働力は「国内外からの移民」によっても支えられていたようです。
無料の船で運河をただ往復するだけでは申し訳ないので「対岸の銭湯に入りに行く」という用事を考えていました。
ようやく、タイトルの通り「お風呂周遊(1)」。天然温泉の泉質も良かったですが、介助入浴の家族や福祉施設の人もちらほら見かけ、偉いなと思いました。私は気ままに風に吹かれたり温まったりしているだけですが。
入浴受付をする直前に目に留まったのはこちら。200円で本物のビール(笑)!
(この間 入浴着替え30分⇧⇩)
めっちゃキンキンに冷えていました。また歩いて落合上渡船場に戻ります。
堤防の高さを越えるため、乗船するには結構な上り下りとなります。子供もお年寄りも一生懸命自転車を押します。
市民には見慣れた大阪市のマークも、我々「外のもん」には
「アレ」にみえますが。
このマーク(指標)は「みおつくし」といって、河川や港湾の運行に支障がないように航路と浅瀬の境界を示しているものです。奥には大阪城が見えますね。
なるほど、水都大阪は大阪の象徴のひとつだったのですね。
【外部リンク】大阪市:渡船場 (…>川・橋>渡船場) (osaka.lg.jp)
15分おきに詰所を出たり入ったり、ほとんど1日中休まる暇がないというのに、乗務員はひとりひとりに「有難うございました」と声掛け。無料で乗船させてもらってこちらこそ「ありがとう」と言わざるを得ません。
かつて運河を挟んだ区の外側では「朝鮮人 琉球人 入店お断り」などの張り紙を出す店もあったと言います。
「今は普通に買いもんとかしている分には何も問題あらへん」。
少し体の調子の悪い人を見送りに、別の家族が運河を往復して付き添っていました。乗船場の坂では自転車を手伝って。
相変わらず川面に吹き付ける風は冷たいですが、再び体も心も温(暖)かくなって、次のNHK朝ドラのロケ地に歩いて向かいます。(続く)■■
北風吹く大阪ベイエリア&朝ドラロケ地とお風呂周遊(その④) - kotarosandayoneの日記 (hatenablog.com)
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