「日本一のバス路線」に沿って歩く旅 のべ3日目。
(2020年3月15日)
奈良県の北と南の分水嶺から、旧大塔村(五條市)を南下している。
この日は最終の新宮行に乗り遅れない(追い越されない)様に計算しながら、十津川村方面への距離を稼ぐことにしている。
今日と明日4日目の歩き次第でバス路線全線をのべ6日間で歩けるのか、それとも7日間以上かかるのかという目安になる。
結局は6日間で歩き通すのだが、後述するが最終日になるほど強行軍になってしまった。
十津川街道は旧大塔村を南に下り、「日本一大きい村」の十津川村の中心をほぼ南北に貫いているのだが、深い谷となっている川のこちら側にも、向こう側にも人が住んでいる。
「日本一長い吊り橋」で観光名所にもなっている谷瀬(たにぜ)の吊り橋をはじめ、十津川街道は“吊り橋王国”でもある。
管内吊り橋マップ/奈良県公式ホームページ (pref.nara.jp)
目指す方向には一つ目の大きなダム、猿谷(さるたに)ダムがあって、川は細長いダム湖の様になって濃い青色の水を湛え、その上に吊り橋がかかっていた。
天辻峠を出発して1時間40分。
「新猿谷トンネル」の入り口についた。
新しいトンネルは2016年3月に開通して猿谷ダム湖畔を迂回し、川をまたいで旧大塔村の集落を見下ろすように長大な橋梁が出来て交通の便を向上させている。
バスは新猿谷トンネルを通るのだが、私はダム湖畔から(旧)猿谷トンネル、そして旧大塔村の集落を通る旧道を歩く。
「旧」を連呼して申し訳ないのだが、バイパス道路の開通のスピードは年を追うごとに早くなっていくような気がする。
新しい道は交通の便を良くするだけでなく、洪水や地滑りなど、過去に繰り返し起きてきたこの地区特有の大災害から住民を守る「命の道」となっている。
猿谷ダムは今から60年以上前、1957年に完成した利水専用のダムで、この山系の水を集めて何と、私が歩いて越えてきた分水嶺の地下を通して紀の川~吉野川水系に水を送っているとの事である。
天川村と旧大塔村合わせて95戸の家がダム完成で水没したそうだが、この地域や下流の治水、発電に使われるならともかく、「山の向こうの人達」のためにわが集落が水没するなんて、当時の住民だったら私も建設反対を訴えていたかもしれない。
地域を流れる川の水や森、すべては貴重な住民の財産で生活の糧である、と。
旧道となった坂道を下って旧大塔村役場近くの集落に差し掛かった。
新しいバイパス橋を右に見上げる形になっている。
1889年(明治22)8月の紀伊半島一円を襲った大水害の石碑が残る。
水かさはこの地点にまで達したという。
当時「100年に一度」の大水は十津川・熊野川水系の人の命と財産を奪い、下流では和歌山県の熊野本宮大社・旧社地を押し流した。
旧大塔村では少なくとも25カ所で地滑りなどの大規模な崩壊が起きて35人が亡くなったとの記録が残る。
「たていしをもって のちのために これを けいかいさせん」(石碑より)
「そろそろかな」リュックをおろして近くの「辻堂」バス停の時刻表を見る。
もうすぐ「八木新宮線」の「第1便」新宮行がやってくる。
来た。
朝9時15分に大和八木駅を出発して11時39分着。定刻ぴったり。
とうに仲良くなった友達(バス)に、ひょっこり再会したみたいだ。
嬉しいというより感動を覚える。
新宮までまだまだ長い道中気を付けて、お客を安全に運んでおくれ。
「日本一のバス」第1便に追い抜かれた私はバスと同じ方向に歩き、この後第2便にも追い越され、そして最終の第3便に飛び乗る予定だ。
コンクリートのバイパス橋梁をバックに、旧道の集落では満開の桃の花が心を癒してくれる。
バス路線は旧大塔村の宇井(うい)地区に入り、私もバイパス道路「ふれあいトンネル」を通らずに狭い坂を下っていく。
地域とのふれあい、ではなくお昼ご飯を食べるためだ。
「うぐひすや」と彫られた立派な旅館の前を通る。
昼食予定の「大塔ふれあい交流館」の手前で、吊り橋の向こうのあまりにも大規模な地滑りの現場と復旧工事のスケールに唖然とする。
これは2011年の大水害の関連か。
(第8話に続く)
~“日本一のバス路線 ” 大和八木~新宮 167キロ+αを歩く~ その⑧ 十津川村 編 - kotarosandayoneの日記 (hatenablog.com)
2021年7月31日更新